画家 現代美術家
井田 幸昌 Yukimasa Ida
1990年鳥取県生まれ。2019年東京藝術大学大学院油画修了。
2016 年現代芸術振興財団主催の「CAF 賞」にて審査員特別賞受賞。
2017年レオナルド・ディカプリオ財団主催のチャリティオークションに史上最年少参加。
2018年Forbes JAPAN 主催「30UNDER30JAPAN」に選出。
2021年にはDiorとのコラボレーションを発表するなど多角的に活動。
制作は絵画のみにとどまらず、彫刻や版画にも取り組み、国内外で発表を続けている。
表現の本質って
どこにあるんだろう。
僕は、絵画を中心に日々制作を続け、表現活動を行っています。作品の制作過程では、最初に計画した通りに表現できないことよりも、予定調和のまま描き、予定調和のまま終わってしまうことの方が辛いと感じる場合があります。僕じゃなくてもできるでしょ、と思ってしまう。ではどんな時に作品制作の喜びを感じられるかというと、僕じゃない何かが降りてきて表現するような感覚になって描けた時です。何度もトライアンドエラーを繰り返して描き続けるなかでは、僕一人の力で描いたのではないという感じられる時があるんです。そんな作品ができると嬉しいし、人も感動してくれるように思います。「どういう風に作ったんだろう?」っていう謎が生まれる。それは自分でさえも分かっていないもので。完成の99%まできた時、ラスト1%の余白がどう埋まるかで作品の良さが決まってしまうような感じがありますね。
また、「表現の本質」にある自分なりの理念として、創作者と鑑賞者の相互に幸せや希望がなければいけないと思っています。制作者である僕も含め、人の感情が動く何か、somethingがないものっていうのは表現として成立しないんじゃないかなと思っています。
僕の作品は暴力的な表現だと評価されることもあります。確かに激しい作品を作る作家なのかもしれない。ただ作品には、過ごしてきた時間に対するプライドとか美しさに対する尊厳などを込めていて、それを表現しています。希望に似た何かが作品の中に題材として無いと、誰かを不幸せにしちゃうと思っているんですよね。表現ってそういうものではないでしょうか。
何かが降りてこない時の
葛藤もある。
それは自分では、はかれないものです。“今日だめだな”みたいな時は、起きた瞬間にそれがわかってしまう日もあります。気づかないふりをして、頑張ってみると払拭できる日もあるんですけど、8割はやはりだめなんですよね。あらがっていながら作品に向かっているときは、やっぱり辛いですよ。でも、ある巨匠が「すごく苦労をしていても、いとも簡単に書いたような絵じゃないと名作とは呼べない」といっているのをみて、僕はその通りだと思いました。苦労を見せたいわけではなくて、どう美しかったかとか、いかに美しいのかといったことを示すのが僕達の仕事だから。葛藤はあるし、苦悩はある。たまには絶望するような気持ちの時もあるんですけど、それもひっくるめて全部「表現」の要素として使って、いい作品になるのならそれさえも耐えるしかないなというのは、常日頃自分に言い聞かせています。 先日、大きな失敗をし、悔しすぎていつも素振りで使っているバットに当たって地面にたたきつけました。バットがバリーンって割れちゃって。あ、これは暴力だから、ダメダメってなりました(笑)。
制作が上手くいっている時の快楽に似た万能感も知ってしまっています。僕に限らず、表現者の快楽っていうものが多分あると思う。上手くいっている時や完成した時は、本当に幸せで、もはや中毒のようなもの。だけど、そこにいくまでの道中はやっぱり失敗もするし、苦悩もあって。快楽を知っているからこそ、その時の絶望感ったらないですよね。真剣に創作している方には共感いただける気がします。
絵を描くプロセスは、
いつもぐるぐる回っている。
プロセスというかサイクルというか。自分の日々の全てが表現につながっていると思います。日常に何かしら網を張り続けて生きている感じがあって、道端を歩いている最中でもモチーフを見つけることもあります。また、イメージの生成はその網を張っているところから始まっていて、描くというのは自身の表現のプロセスにおいては一部なのかもしれません。どういう順序なのかはわかりませんが、ずーっとぐるぐるぐるぐるしてるっていう感じです。だから終わりも始まりもない感じはあります。やっては考えてやっては考えて、みたいな。
ルーティーンとしては、どんなに嫌でも自分のスタジオには行くようにしています。 描きたくなくても、とりあえず居て、そこでボーッとしてる。イメージが降ってこないかなーと一日中何もせず散歩に出かけたりしながら過ごすこともあります。三日スタジオ空けるともう不安にはなります。スタジオ依存症?制作依存症?でしょうか(笑)。創んなきゃ不安っていう・・・。
創っている最中は、ほぼほぼ何も感じないですね。もちろん苦労もあるけど、描いている時が一番楽しくて、生きていて楽とさえ感じる時間です。
誰かに求められて描く絵と、
自分が描きたい絵と。
人から頼まれたものを描くと、途中でイメージが切れちゃうことがあります。頼んでくださった方にイメージのゴールがあるので、それに僕が合わせていくとそれ以上イマジネーションが降りてこないというか、湧いてこないんですよね。限界値が僕にないというのはしんどくなることはあります。自分が描きたいものを描かせていただく方が僕には向いているんだと思います。 だって描きたいということは、それが好きだし、それの魅力を知っているということ。どうやって描こうかなってこうワクワクするんです。そのワクワクする感じを表現するので、それを見ていただきたい。僕は、絵を描きたくて画家になった。画家になった理由は、好きなものを創りたいから。その好きなものというのは、自分が生きてきて出会ったもののはずで、それを描くことが僕にとっての描くっていう行為なんです。いろんなタイプの方がいらっしゃると思うけど、僕の場合はやっぱり僕が何を見たかを見てほしい、そしてそれがいかに人に伝わるか見てみたいという思いで、画家を、表現を続けています。
自分の作風ってなんだろう。
取材などで、「井田さんはすでに画風が確立されていて」「いつからそうなったんですか」と言われることがあります。が、自分では画風があるとは思っていません。いまだにブレブレなんですよ(笑)。すぐに飽きちゃうし、違うことを始めちゃうんですよね。僕が飽き性っていうのもあるんですけど、画風とかフォーマットということはあまり興味がなくて、意識をしていない。
10代では、一生懸命勉強して、自分の画風を確立しようと思っていた時期もありました。でも、延々と描いていて自分のテイストや、絵画というものがどんどんわかってきたら、僕は同じものを一生やり続けるのは無理だと気づきました。そしたら気が楽になって、めっちゃ楽しくなって、無我夢中で様々なチャレンジができました。 常に新鮮に絵を描いていたい。画風と呼べるものはないですが、そういう自分のスタイルがあるかもしれないですね。“新しさ”というよりは”新鮮“さという感じなんですけど、常に新鮮でいたい。今はそういっていますが、60歳、70歳になった時に同じ絵しか描けなくなっちゃうかもしれないんですけどね。今はまだ挑戦が継続できているのでいいかなっていう(笑)。肉体の変化と共にそういうものも変わっていくと思います。20代の頃よりはブレが減ったとも思いますしね。今は挑戦し続けたいですね。
いかにナチュラルで
いられるかということ。
新鮮にやりたいと話しましたが、その新しさっていうのは、自分の中で自分にとって新しいことであればいい。初めて出会うところが作品の中に一欠片でもあると、その作品をすごく好きになれるし、自分が好きになれる。でも、それを求めてやり出すと、それが目的になっちゃうんですよ。そうすると出てこなくなっちゃうんです。無心で集中してやっている時にこそ、新しい何かと出会うことが多い。だか ら、いかに無心になるかが最近のテーマになっていたりします。 調子のいい時は、自分で描いてないかのような感じになるというか、何かに動かされてやっているみたいな感じになるんですよ。バンバン絵が決まっていくし、楽しい。いかにその状態になれるかというところですね。20代の頃よりはコントロールできるようになってきた気がするんですけど、まだまだですね。
絵で表現したいこと。
描くことで表現したいことは、毎回変わります。メインテーマとしては一期一会、時間、出会いなどですが、ディテールを探っていくと一言では言えません。 何か僕が美しい時間を過ごすなかで描く動機を得て、描こうと思った僕だけのス トーリーを絵にすることで、そのストーリーが具現化されます。その具現化された作品を見て、僕しか知り得なかったものを誰かと共有している感覚はあります。共有することで、お互いいい時間が過ごせたらなあ、ということはすごく思っています。自分の作品を発表するってそういうことかなとも思うし、なんでその人に絵を見せるのかっていうと、やっぱり共有したいからだよなって。もしかしたらすごく傲慢かもしれないんですけど。でもそれでもし誰かが幸せになるなら、それが一番ハッピーだし、僕もハッピーだし、みんなウィンウィンでいいじゃん、って思ったりして。言い方は難しいけど、でも根っこの部分はそういう気持ちで作品を創っています。
絶対に裏切らないもの。
実は、臆病者なんですよね。作品を創る時だけ大胆になれる。絵は僕の味方なんです。すごい先生でもあるし、友達でもあるし。絵は絶対裏切らない。絵を裏切るとしたら僕だと思っていて、絵が腐る時は僕が悪いんだろうと。全部自分のせいと考えると、逃げ道はなくて、逆に楽だなと感じています。